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zoom RSS 「個」による「表現」を超えた建築

<<   作成日時 : 2012/02/06 15:40   >>

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2011年新建築12月号に、伊東豊雄さんの「みんなの家」が掲載されました。



気になったのは、その作品自体ではなく、そこに添えられた伊東さんの文章です。
『日常固執している表現を殺すことによって初めて、あの住民たちと喜びを分かち合うことができたのだ。今回の震災で、「個」による「表現」を超えたところで何ができるのかを強く考えさせられた。』
というものです。
普通の木造建物の表現であることの是非を何度も自身に問いただし、結局、表現の意味を見出すことが出来なかったと語り、上のように続けました。

尊敬する伊東さんだからこそ、なんだか複雑な気持ちになりました。
建築の現代を自分なりに総括すれば、それは身体感覚的な建築の時代だと思っています。それを妹島和世さんや石上純也さんに代表される、身体の先に広がる空間の質を追求した建築と言い換えても良いです。
そして、伊東さんこそ、このような系譜の源流であり、親分だというのが私の総括です。

伊東さん以前は、磯崎新を親分とする「形式の建築」の時代でした。その代表作としてつくばセンタービルがあります。



つくばにおいては、ミケランジェロの「カンピドリオの丘」は、サンクン形状のように反転されること自体(形式)に意義があり、その具体的深さや見え方などは問題にされません。仮に妹島和世さんなら、サンクンの深さを一ミリ単位でスタディーすることだってあり得ます。
「形式の建築」全盛時代に学生だった私は、現代思想や哲学を駆使してなされるそれら作品の説明に、建築のエリート文化を感じ心地よく思う一方、理論で八方塞がりのようでひどく窮屈な感じも抱いていました。

こんな閉塞感に孔を空けたのこそ伊東さんです。少なくと自分は、そんな風に考えています。
1970年代に書かれた二つの論文、自らの師である菊竹さんに向けた「菊竹清訓氏に問う、われの狂気を生きのびる道を教えよ」も、先輩である磯崎さんに向けた「磯崎新の身体的空間とマニエラ」のどちらの論文も、身体感覚建築のためのマニフェストだと、私は考えています。
そして、そのような建築が生み出す自由で楽しい空間は、人々の共感を得て、カーサブルータスなど一般誌でも取り上げられる身近な存在にまでなりました。

身体感覚の建築は、屁理屈のいらない建築などとは解釈すべきでありません。
どんな建築だって、今という時代の感性に根ざして、あるいは自らの身体に根ざしていないものなんか、人を感動させる力なんて持ち得ない筈です。
建築に形式は不要という意味ではなく、実際立ち上がる建築に不可避的にこびりつく作者の身体性を通して建築を批評することも大切だ。
そう、伊東さんは言い続けてきたというのが、私の総括なのです。
そして、その文脈は、3.11以降に消えてしまうものなのでしょうか?

復興住宅は、限りなくローコストでできるだけ高性能、そしてこれ以上無いほどのスピードが要求されると思います。
表現を追及する時間やコストなどきっと無いことでしょう。
建築家にとって、新たに住処(すみか)を手に入れて喜ぶ住民たちとの共感に勝るモチベーションなんて、ある筈無いことも想像できます。

それでも、「個の表現は付き纏う。」
もっとダイレクトに言えば、個の表現はどんな場所でも追求する。
そして、たとえそれが住民の無意識にしか宿らない喜びであっても、きっと意味あるものだと思います。








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